母の日





それは、賢木と皆本がまだコメリカに居た頃のある日の一幕。




朝というのも憚られる時刻であるにも関わらず、賢木は未だベッドの上から起き上がれずにいた。

というのも、ゆうべは合コンを二つ掛け持ちし、帰宅が深夜に及んだ所為だ。

「う…ん…っ…」


馬鹿騒ぎによる倦怠感と深酒に所以する二日酔いにうなされながら、

賢木はごろごろと寝返りを打ち、必死で覚醒を拒否する。

今日もまた、レポートの課題が手ぐすねを引いて彼を待っているのだが、一向にやる気など起きない。

サボるわけにはいかないのに、いつまでたっても決心がつかずベッドの主と化していた

賢木の耳にふと飛び込んできたのは何かの物音。


(???なんだ…?)

いくら酔っていものの、自分は確か施錠はした筈だ。

国情的に、開けっ放しで惰眠をむさぼれるほど賢木は豪胆では無い。

何があっても、それだけは注意しているのだ。例外などあり得ない。

しかし、確かにその物音はリビングの方から聞こえていて。

何かが動く音に靄がかっていた思考が一気に鮮明になり、賢木はようやく重い体を起こした。

「っ、てぇ…っ」

こめかみを押さえつけられているような激しい頭痛に苛まれながら、

賢木は乱れた服装に構わず、目的地へ移動する。

勿論ベッドサイドに置いてある銃を持っていくことも忘れない。

「警察沙汰は勘弁…」

朝っぱらからめんどくせぇ、と呟きながらだんだんその場に近づくと、

次に賢木に届いたのは郷愁を誘う微かな香り。


(ん?これって…)

しかし、その匂いが何か分かったとしても、賢木の疑問は晴れない。

最近、実習やら何やらですっかり自炊がご無沙汰になっている身。

冷蔵庫の中にあるのは、ビールとミネラルウォーターくらいなものだ。

だから、この匂いの元がこの家にある筈がない。

それなのに。

(随分と訳わからん泥棒だな…何がしたいんだか)

すっかり泥棒と結論付けドアを開けると見知った顔があることに気づき、賢木は目を大きく見開いた。




「み、なもと…え、なんでここに」

「何でって…今日は午後から映画に行こうって行ってたじゃないか」

「そらまぁ…言ってたけど…でも随分早いし、鍵は?」

「あーやっぱり忘れてる」

「???」

「はい、これ」と賢木にスペアキーを手渡しながら、皆本は苦笑交じりに彼に説明をする。

「昨日合コンの帰りにたまたま会っただろ?その時にもしかしたら寝坊するかも知れないから

起こしてくれって言って賢木がさ、渡してきたんだけど」

「え、マジで?」

記憶を取り出そうとしても、ショート気味の頭でその作業をしようにも上手くいかず、

賢木は首を捻る。

「うん、多分忘れてると思ったけどね。だってすっごいベロベロだったし」

軽い非難交じりの言葉に、賢木は手をパンと豪快に合わせた。

「や、マジごめん…ぜんっぜん、覚えてねーわ」

「ほどほどにしておいた方がいいよ?いつかトラブルになりそうだ」

「はは、まぁ…忠告サンキュ」


本気で心配そうな親友の笑みを見ながら、賢木は自分の行いを反省せずにはいられない。

「ストレス溜まってんのかな、俺」

「うーん…結構楽しく過ごしてるように見えるけどね。溜まってるなら、相談に乗るから」

「皆本…」


心に響く言葉を無自覚にこちらにくれる親友に、賢木は自分の心がほわりと温かくなるのを感じた。

苦言交じりの忠告は全て、賢木を本気で心配するがゆえの言葉。

上辺だけでは無い誠意の籠った皆本の発言は、反発する気すら賢木から奪う。

しっかり頷く賢木にようやく安心したのか、皆本は、

「ま、次からは気をつければいいんだしね。とりあえずシャワー浴びてきたら?」

と賢木を促したのだった。




温いシャワーを長めに浴びて、ようやく二日酔いから復活した賢木がリビングに戻ると

そこにあったのは、由緒正しい和定食。

炊き立てのご飯に、焼き海苔、卵焼きに、ほうれん草のお浸し、納豆。

そして、先ほどの香りの正体である味噌汁。




コメリカに来てからというもの、郷に入っては郷に従えとばかりコメリカ料理ばかり食べていたため、

定番和食を見ることなど殆ど無くて。

日本食材を扱うスーパーもあるのだが、お世話になったことなど無かった賢木にとって、

久しぶりの対面に思わず体が正直な欲求を訴える。

ストレートな空腹の音に、皆本はくすりと微かに笑って。

「これ、皆本が作ったのか?」

「僕以外誰がいるんだよ。胃に優しいメニューの方が良いかと思って」

「炊飯器なんて無かっただろ」

そう、かさばる電化製品は必要無いとばかり来日の際には持ってこなかったのだから、

ご飯が炊けるものなど無かった筈だ。

「土鍋があったからそれで炊いたよ。火加減さえ調節出来れば美味しく炊けるしね」

僕の家でも、土鍋炊きしているからと皆本は微笑む。

「なんつーか、お前本当に家事に長けてるのな…」

感嘆の声を上げる賢木に、皆本は少し頬を赤らめながら、

「そんなこと無いって。さ、食べようか。ちょっと遅い時間だけど朝食ってことで」

と席に着くよう促したのだった。




「「いただきます」」

日本式の挨拶をかわすと、めいめい好きなものに箸を伸ばす。

一番先に味噌汁に口をつけた賢木は、思わず声を上げた。

「うわ、マジ美味い…ほっとする…」

「良かった…。はじめて使う味噌だからちょっと心配だったんだよね」

「初めて?」

「日本から送ってもらった味噌なんだ。おすそわけするから、賢木も試してみると良いよ」

「サンキュー。あーでも俺、こんな上等に作る自信ねぇなぁ…」

出汁もきちんと取られた味噌汁は、賢木の好みど真ん中で。

自分で作ると、どうも雑に作っている所為かあまり好みの味になった記憶がないのだ。

「結構高い味噌だから、大丈夫だと思うけど…食べたかったら言ってくれれば作りに来るよ」

親友の人の良い返事に、思わず心の中でガッツポーズをしてしまう。




食べたい時に呼ぶ=会いたい時に会えるサイン。

それがこんなにも嬉しい。


(ん?…ちょっと待て)


何で、親友に会うことがこんなに嬉しいのだろう。

大学でも毎日ではないにしろ、頻繁に会っているというのに。

どうして、プライベートでも会いたいと思うのか。


「賢木?遠慮しなくても良いからな。僕も一人より賢木と一緒の方が良いし」

皆本の無邪気なセリフを聞いた途端、心臓の奥がどくりと跳ねた気がした。


心を溶かすような笑みと、信頼を無条件に明け渡すかのような振る舞い。

理性が崩壊するかの如く、激しい喜悦が止まらない。


(何考えてんだ、俺)

その意味を無視すればいいのに、今日はどうしてか疑問に突き当たり、

賢木は食事に集中するふりをして、目の前の親友を見遣る。


ほんのりと優しい笑みを浮かべ、箸を動かす年下の彼。

綺麗な箸使いで食事を楽しむその容貌に目を奪われる。

目の前の献立よりも、彼の表情の変化をずっと見ていたい欲求に囚われ、

賢木は焦りと動揺で自分の手が震えだすのが分かった。



テーブルを挟んでの食事が、こんなに自分の中で大切に思えるなんて。

ずっと皆本の顔を見ながら、こうして食事をしていられたらいいと思うなんて。

もしかしなくても、多分。




「っ!あっち…ぃっ!!」

すっかり自由が奪われた掌から、中身の残っている味噌汁椀が零れ落ちる。

その熱さに我に返った賢木は、慌てて椅子から立ち上がった。

「だ、大丈夫か?賢木っ」

突然の賢木の失態に、皆本もまた勢いよく席を立ち、タオルを手に駆け寄ってくる。

「や、冷やせば平気…。…つか折角作ってくれたのに」

「まだあるから大丈夫。処置が先だろ?」

待っててというが早いか、彼はキッチンで手早くタオルを濡らすと、患部に当てて。

ひやりと冷たいその温度が肌に心地よく、賢木はそのタオルを受け取ると

そのままごしごしとズボンを拭いた。


「まだ寝ぼけてるのか…?」

ほんの少し呆れたような声音には、全く返す言葉など無い。

「や、そんなことねぇけど…ちょっとな」

この先はとてもじゃないが言いづらく、賢木はズボンを替えるべく

リビングを出ようと向きを変えた。

「全く…。あ、タオル後で洗うから、汚れたのこっちに貸して」

「わり…何から何まで」



皆本の過保護気味の親切を受け取り、そのままタオルを渡そうとした瞬間。

触れ合った指先から伝わる鮮烈なイメージ。



((もう…賢木には僕がついてないと駄目だなぁ…))

((ずっと傍にいてあげないと…なんか心配でたまらないよ))



「!!!!っ!!」

「賢木?」

「な、なんでもねぇ…っ!!」

飛び込んできたのは、皆本の混じり気なしの感情。

そのあまりの強烈さに、自分の顔が一瞬で赤く色を変えるのが分かる。

(何で…)

どうして、こんな自分に呆れないでなおさらに、あんなことを思ってくれるのだろう。





そんな彼の前では、これ以上気持ちを無視するなんて逆に失礼な気がする。

息せき切ってバスルームに飛び込み、賢木は顔を隠すように掌で顔を覆った。

触れ合った指先が、熱を持っているかのようにじくじくと熱い。

被害を受けたのは太ももなのに、それよりもはるかに指先に意識が集中している。

皆本の熱を貪欲に吸収したかのような、その部分。

「もう、無理…だよなぁ…」


これ以上、その笑顔に癒される意味を無視できない。

その言葉に、情動が揺さぶられる訳を否定できない。

「俺も、皆本がいてくれないと…駄目だわ」



バスルームでシャワーコックを捻り、小さく呟く賢木の言葉は水音に静かに溶けて。

ただ、シャワーでも散らせぬ熱だけが体を駆け巡ったのだった。






終わり