不意打ち。(1)




一体どこの世界に、命令と称してキスシーンを要求する上司がいるというのだ。



「あの、意味がワカンナイんですが」


一升瓶を勇ましく抱えた上司に向かって、おそるおそるご下問の意味を問いただした賢木に、

彼女は口元をにやりと緩ませてみせた。


「うふふ、恍けて逃げようって言ってもそうは不二子が許さないんだからv」

「許すも許さないも…ちょっと、ここじゃ洒落になんないでしょ、冗談抜き」


なにしろ、周囲を見渡せば自分達のグループ以外に大勢の酔客がごった返している大衆酒場である。

憂さを晴らしに、とか、栄転を記念して、とか様々な理由でグラスを汲みかわしている大勢の客の前で

そんなことをしろだなんて、晒し者になるにも等しい行いだ。


例えば、ほんの慰め程度にでも間仕切りがあるなら彼女の言葉に答えた確率は無きにしも非ずだが、

現状そんなものは存在せず、自分達の席はどの角度からも丸見えで。

しかも、洗面所に近い場所柄、人の往来が結構激しいというおまけつきだ。

懇切丁寧に説明をしてもなお、しつこく食い下がる上司にほとほと手を焼きながら、

賢木はすっかり泡が消えたビールを一口含んだ。


(当初の予定は、俺の誕生日を祝してってことじゃなかったか?)



大体上司に強制的に引っ張られた際、「前祝いだから、主賓は拒否権無しよ」と彼女は宣言していたのだ。

そういう認識があるのなら自分にもう少し優しくても良いと思うのだが、

すっかり横暴ぶりを発揮している蕾見に「無理だな」と自分の中で判定を下す。

あくまで自分の誕生日云々は飲みに行く際のダシにしか過ぎなかったのだろう。

それを示すかのように、自分を残して他のメンバーは皆、混沌とした意識の中で夢の世界に溺れている。


素面でも酒気を帯びてもどちらでも大差が無い蕾見はさて置いて、

普段バベルの良心の誉れ高い柏木まで微妙なラインに立っているのを悟り、賢木は小さくため息をついた。

雲行きの怪しさに目眩がする。


このままだと深酒に流された輩がタチの悪い上司にうっかり同調しかねない。

確実に悪い予想に事態が転ぶことは半ば確定事項だ。


(さて、どうすっかなー…めんどくせぇ)


賢木は、視線を横にずらす。

本来なら無体な命令に真っ向から反発する筈の皆本の反応が驚くほど薄い。

彼もまた、本日の飲み会要員として自分と同じように引っ張ってこられ、強引にその場に据えられたのだ。

自分以上に不本意だったのか、当初皆本は強硬に蕾見に拒絶の意を示して。

今思えば、多分先約があったのかも知れない。

グラスを開けながら、彼は何度も時計と蕾見の顔を交互に見つめていたので。

現在もぴりぴりした雰囲気を身に纏い、ビールを飲んでいる皆本に、そんな蕾見の戯言はますます逆効果だ。

火に油を注ぐようなものだ。



(おー…固まってる…驚くよな、普通)


気真面目な彼にとって、今の蕾見の発言はそれだけの衝撃がある筈だ。

なにしろ、上司が望むのは自分と皆本のキスシーンなのである。

しかも、あろうことかほっぺではなくマウストゥマウス、の条件付きだ。

イケメンが絡む姿が見たいのよ!と何故か宣言した彼女に、同僚の女性陣まで目の色を変えた為、

事なかれ主義の男性陣は口を噤み、ストッパーの無くなった上司は暴走するばかりで。


(ホント意味わかんねーし。なんで、俺達のキスシーンなんて見たがるんだか)


見れば見たできっと酔いが覚めるだろうに。

酒の上での無礼講だとしても、あまりにジョークが過ぎる。


「おい、皆本大丈夫か?」


あまりに反応が無い彼に不安になって声をかければ、彼はグラスを持ったままテーブルの一点を見つめ、思案げに眉を寄せて。

自分ですら、一瞬言葉を失ったのだ。彼ならば憤死寸前になってもおかしくない。

賢木は親友兼恋人の重苦しい無言を拒否と受け取り、口を開く。


「あの、やっぱり…管理官、そういう冗談は」

「やります」

「「えっ?!」」


刹那、賢木の言葉を途中で打ち切るような声は、隣から発せられた。

その声の主は勿論皆本。

とんでもない提案への承諾の意を、洒落を解する賢木では無く、真面目一辺倒の彼が示したことに

流石に上司も驚きを隠せなかったようで、賢木の動揺とともに上司の驚きが、見事に重なる。


「おい、皆本っ!!意味良く理解してねーんだよな?!今すぐ否定しろっ!!」

今なら聞き間違えで済むから、と体を揺さぶる賢木に、皆本は「何で?」と彼を睨みつけた。

「何でって…そりゃ…衆人環視でそんなん出来るタマじゃないだろが、お前」


蕾見の命令を良く考えれば、「何で」という言葉が返ってくること自体ありえないだろうに、

皆本はじっとこちらを強く見つめてくる。

何かを訴えるような視線に透視した方がいいか、とあれこれ考えている最中にも皆本の言葉は撤回される様子が無い。



「僕が良いって言ってるんだから、万事解決だろ」

「あっさり話終わらせんなって!!何で引きさがんねーんだ、そっちの方が意味分からん」



賢木としては、酒の勢いの無理難題を聞く義理は無いし、二人きりや、恋敵に牽制する時以外で、

皆本とのラブシーンをむやみやたらに披露する気は無い。

だから、蕾見がまだゴーサインを出す前に無かったことにしろと焦る賢木に対し、

皆本は問答無用とばかり静かに顔を近づけてくる。


(え、マジ?!つか…いや、皆本にキスされんのは嬉しいんだけどさ…っ)


目を閉じることすらすっかり忘れて、目の前の彼をじっと見つめていると、

いつしか周囲から音が消え、ただ唾を飲み込む音が微かに耳に届いた。

目の前の皆本は目を閉じ、頬を鮮紅色に染めゆっくりと顔を寄せて。

普段ならこんな据え膳を逃す手は無いのだが、流石に今日はどうすればいいか答えを決め兼ね、

状況に流されていると、酒の匂いが鼻先を擽って。

もう少しで唇が出会うその瞬間を想像して、ますます皆本を凝視すると。

ほんの数センチの距離で、彼はぴたりと動きを止め、くるりと蕾見に向き直った。


「これで、いいですか?管理官」

「え、うそ!寸止め?!その先は?!」

「ありません!!妥協点ぎりぎりです」

「イケズ!皆本クンのケチ!!」

「ケチで結構!じゃあ、一応要求は叶えたんですから、僕たちはここで帰りますよ!」

「え、あれ…俺も?!」

「ああ、行くぞ賢木っ!」


どうやら皆本の予定の中に自分もすっかり組み込まれていたらしい。

寝耳に水の展開に戸惑う賢木は、皆本を窺う。

本気で焦っているのか、急いで荷物を抱え、空いた手の平を賢木に向かって伸ばす。

急な展開に戸惑う賢木の手を取ると酒が入っているとは思えぬ速度で走りだした皆本に呆気に取られながら、

彼は引っ張られるまま皆本と共に夜の街へ消えたのだった。



続く