君まで一歩。(1)





勾配が緩やかな細い上り坂をゆっくり進んでいると、自分の右側を申し訳なさそうに一台のトラックが

通行しようとしているのに気づき、皆本は慌てて脇へと避けた。

とはいえ、元々道幅の広くない道である。

例え皆本が限界まで避けても、進むことに注意を要することにはあまり変わりがない。

(あれ…引っ越し屋のトラックだったな)

CMで盛んに放送されているサービスが売りな引っ越し業者のマークに、皆本はふと疑問に思った。





この坂を登りきった所にあるのは、自分が住むアパート一棟のみだ。

部屋数は3つ。元々一般住宅だったものをリフォームしたため、居住戸数は最大3名。

現在の使用状況は1部屋を皆本が借り、もう一部屋を大家が使用するという形になっている。

あまり商売っ気の無い人の良い大家につい甘えて居を定めて数年。

それから一度としてアパートが満室になったことなど無い。





それに最近は高齢の所為か大家が近くの娘夫婦の所に泊まることも多く、

もっぱらアパートの番人は自分のようなものだ。

大家としては娘夫婦の家の方が何かと楽しいのだろう。

そういえば、最近孫が出来たと嬉しそうに語るのを聞いたばかりだ。

娘としても世話に手慣れた親が居るのは心強く、両者の意見ががっちり一致しているに違いない。

朝早く夜も早い大家の生活リズムに自分のリズムが合うことは無く、

挨拶もまれにしか出来なかったけれど。

あのほんわかした笑顔を見るだけで癒されたのに。



(大家さん…もうここやめるのかな)


折角この街が好きになったのに、と残念に感じつつ、急に重くなったエコバックの中身を見遣る。

「光ちゃんにサービス!」と馴染みの八百屋がまけてくれた大根2本と、キャベツ。

重量感のある野菜だけど、その調理法を考えながらだと家路の距離も気にならなかったのに。

(さっきまで、あんなに楽しかったのに…。なんかもう、どうしようかな)

葉と皮の部分は細かく刻んでごま油で炒めようとか、残りは厚めに切って薄味に炊こうとか、

考えていたプランが途端に味気ないものに思えてしまう。


(あーでも、厚揚げ確か賞味期限今日までだ。大根と炊き合わせて使い切らないとなぁ)


どこまでも身に染みついた習性にほんの少し溜息をつきながら、

皆本は残りわずかとなった距離を憂鬱な気持ちで登りきったのだった。



ふぅと、一息ついて坂道を登り切ると目の前に少し年季の入った建物が飛び込んでくる。

それが皆本の住むアパートだ。

実際の年数に見合った外装の割に中は驚くほど瑕疵が少ない。

かなり丁寧に使われていた証だと皆本は思う。

今まで何度か居を変えたけど、これほど自分の好みに合う場所は今まで無かったのに。

アパートもそうだが、この街もまた皆本にとってとても過ごしやすい環境で。

よそ者に優しいとでも言おうか、個人商店の店主はあっけらかんとして懐が深く、総じて皆温かい。

他人との垣根が低いこの街の住民に皆本もまた心をあっさり開くことが出来て。

今では昔からの旧知の仲のように、ついつい我儘なお願いをしてしまうことすらある。



だからこそ、このアパートから追い出されるのは辛い。


都心からあまり離れていないにも関わらず、穏やかな空気が流れるこの場所から離れたくはないが、

人気のある街なので部屋の空きを待つのも多分難しいだろう。

(もし確定になったら、誰かに相談してみようかな)

とりあえず言い渡されるまでは粘ろうと心に決めると、

案の定先ほどのトラックがアパートの前に停まっているのに気づき、皆本は溜息をそっとついた。


どうやら粘る粘らない以前に、本当にタイムリミットは近そうだ。


(ああ、やっぱりか)

引越しするのは苦ではないが、このアパートを、そしてこの街を離れるのは辛い。

ずうんと落ち込む皆本の前に、トラックからどんどん運び出されるのはスチールラックや、

皮張りのソファなどの家具などで。

「あれ…?」

皆本はきょとんと首を傾げた。


もしかして家具を積み込むのではなく、運んできたのか。

とすると、自分の隣人がようやく現われたのだろうか。


「スイマセンね〜すぐ済みますから」


にこにこと笑顔全開な引っ越し業者にいいえと軽く会釈をすると、

皆本は自室へ向かう階段を引越しの邪魔にならぬよう慌てて駆け上がった。

人一人通るのも難儀なこの階段、どうやって家具を運ぶつもりだろう。

ふと興味が湧いて後ろを振り返ると、そこに居たのは初めて見る人物で。



浅黒い肌に精悍な顔立ち、彼が汗を拭うために無造作に髪をかきあげると、匂い立つような色気がさらに表層に現れる。





まるきり自分とは違う雰囲気を持つ人物に興味が湧き、会釈すると彼は少し躊躇してから小さく会釈を返してきた。


(変だな…)

会釈くらい、別におかしなことじゃないのに。

何も躊躇う必要なんて無い筈だ。

逆に反応に困る方が不信感を煽るというのに、意味が分からない。


(ま、いいか)

後でまた挨拶をしに行ったら、そんな疑問なんて払拭するだろう。


ようやく現われた隣人に皆本は気持ちが高揚している自分に気づき、思わず苦笑したのだった。






続く