君まで1歩。(2)
手にした段ボール箱をがらんとした室内に置くと、滲み出る汗をシャツの袖で無造作に拭う。
すっかり温くなったペットボトルに口をつけながら、賢木は先ほどの接触を苦い気持ちのまま思い出していた。
(ちくしょ、失敗した)
善良そうな笑顔を向けてくるから、しなくても良い会釈なんてしてしまった。
そんな普通のやりとりなんて、何があってもする気など無かったのに。
それもこれも、アイツの所為だと勝手に決めつけながら、引っ越し作業に精を出す。
どうせ、面倒になればまたここから引っ越せば良いだけだ。
そのつもりで、荷物も必要最低限しか持ってきてはいない。
(ま、どうでも良いしな、隣が誰かなんて)
自分にはまっとうに近所付き合いなんてする気はないのだから、他人の性格が良かろうが悪かろうが
そんなことは一切関係がないことだ。
こちらの生活リズムさえ脅かさないでくれたら、後は本当にどうでも良い。
(…大概ひねてると思うが、仕方ない)
自分は、もう誰かと親しく接する気なんて無いのだから。
自分の世界に誰かを立ち入らせたくない。
そんな迂闊なことは絶対にしない。何があっても。
「メンドクセェ」
出来ればずっと自分の世界に耽溺していたいけれど、そうするには生活資金が心もとない。
他人にリズムを引っ掻き回されるのはもう懲りたが、それでも自分が許せるギリギリの範囲で
なんとか暮らしていかなければいけないので。
今回の引っ越しは、その為に必要な措置なのだ。
坂の上に一軒だけのアパート。
大家は不在気味で、隣人が一人だけだからこそ、決めたこの住まい。
さらに自分の希望を強固なものにするべく、賢木は段ボールを開きながら、策を練る。
(ここまで言えば、きっともうほっといてくれるだろ)
きっと呆れて、一切の接触を断ちきるに違いない。
自分ならば、多分怒って顔を見るのも嫌になる。
そこまで最低なことを言おうとしている自分に少しだけ呆れながら、
賢木はそれでもその言葉を彼にぶつけようと固く心に決めたのだった。
引っ越し屋から運び出された荷物が、すっかり自室に運び込まれるまで1時間。
その間、隣人が出てくる気配が無かったことに安堵しながら、賢木はすっかり引っ越し作業を完了させた。
「じゃあ、僕たちはこれでっ!」
「ああ」
あれだけの荷物を運搬したというのに、疲れを見せず微笑む若い業者に飲料代として財布の中から千円札を取り出すと
彼らは頑なに遠慮して、くるりと踵を返す。
「またのご利用を!」
「おい、来たばっかなのにそれはまずいだろ」
「あ、そっか…あのじゃあ、大きな家具買う時は是非」
漫才の掛け合いのようなやりとりを少し冷めた気持ちで見つめながら、表情には出さずお疲れさんと呟く。
じゃあ、と元気よく去っていく彼らを見送りながら、賢木は自室のドアを乱暴に閉めた。
これから段ボールの整理が自分を待っている。それから家具の配置について考えないといけない。
やることの多さに、少しげんなりとする。あまり長い時間をかけると心底やる気がなくなるので、
今日のうちに全て終了しなければならない。
「ま、ベッドはここで良いか」
大型家具は動かすのも面倒とばかり、先ほど彼らが置いた配置をそのまま利用することにする。
ベッドは壁際、テレビは窓際の角。本棚とデスクはベッドの横。
ソファはテレビの正面、それから炬燵兼用のテーブルはその前に。
あっさりと配置を決めると、さっさと残りの荷物を紐解き、全部収納してしまうとに集中する。
収納だけすれば、とりあえず部屋は片付く。使い勝手の悪さはおいおい考えれば良いことだ。
そんな風に体を動かしていると、さして多くもない荷物は時間をかけずすっかり収納場所に収まって。
キッチンの使い勝手を確かめるために持ってきた乾蕎麦を茹でていると、ふわりと甘い匂いが賢木の鼻を擽った。
(これは醤油と砂糖の…煮物か?)
換気を良くするため開けた窓から隣の食事の匂いが伝わってきたらしい。
自分以外ではない、家庭料理のふんわり優しい匂い。
途端に正直な腹が、ぐうっと大きく鳴る。
(現金すぎるだろ)
さっきあれほど干渉を持ちたくないと思ったばかりなのに、食事に反応する自分の体が疎ましい。
ご相伴に預かる機会も無いのに、どうしてかその匂いはひどく賢木の好みで。
(ああ、もう鬱陶しすぎる)
蕎麦を乱暴にかき混ぜると、湯の中で麺が賢木の箸から逃げるように泳ぎ回る。
「ったく、かったるい」
茹で時間を待つのすら面倒で、賢木は少し芯が残った状態で麺を引き揚げた。
茹であがった蕎麦は当然のことながら美味しくなく。
ますます、賢木の苛々を募らせる結果となったのだった。
続く