君まで一歩。(3)
隣から響く騒々しい物音が、ようやく一段落したのかぱったりとやんだのを耳で捉えつつ、
皆本はキッチンで本日の昼食を手際よく完成させていた。
結局予定通り、賞味期限の迫った厚揚げと大根の煮物を作り終え、他には胡瓜と若布の酢の物、キャベツの煮びたし。
若者向けとはいいがたい和風メニューだ。
多めに作っておけば、煮物や煮びたしは、弁当の常備菜として何日か持っていくことが出来るので、
比較的煮るメニューが皆本の献立の中心になっている。
最後の調整とばかり、キャベツを摘み一口味見をしながらも、皆本の気は隣人に向いていた。
今頃、彼もまた食事をしている頃だろうか。
この辺りの店は確かに皆温かい店ばかりだが、個人経営の店が主なので、
チェーン展開している店に慣れていると少し敬遠したくなるかも知れない。
(でもなぁ、それ僕が言うことでもないし)
あまり当人が必要と感じていない情報をこちらから提供するのも少し気が引ける。
(最初は挨拶が肝心だし、それからお隣さんの人となりを知っていけば良いかな)
いずれにしても、入ってすぐに退去ということはない筈だ、多分。
早くこのアパートが好きになってくれるといいなと思いつつ、皆本はガスコンロの火を止めたのだった。
テレビの前のテーブルにきちんと献立が配膳されたお盆を置くと、皆本はエプロンを外す。
ついていたテレビを消すと、彼はいただきますと手を合わせた。
食事の時にテレビを見ないのは長年身に付いた習性だ。
両親ともに食事のマナーについて煩かったため、自然とそうなった。
親と一緒に暮らしていた時はテレビを見なくても、食卓に会話が溢れていたから寂しさを感じなかったが、
こうして一人暮らしをしていると音の無い食事はひどく寂しい。
もそもそと箸を動かしながら、今日のメニューについて自分なりに評価を下す。
今日もおおむね成功のようだ。
誰かに食べさせることもなく、すっかり上手になった料理がテーブルの上でゆっくりと冷めていく。
そんな光景にもすっかり慣れた筈なのに、唐突に一人が寂しくなるのは何故だろうか。
普段、まるきり人と接していないわけではない。
ここに来る前に、顔馴染みの店主と野菜の旬について盛り上がったし、先ほど引っ越し業者とも軽い挨拶を交わした。
だから、一言も誰かと口を聞いていない訳じゃない。
けれど、自分の全てをまるごと相手に明け渡すほどの会話をしたわけでもない。
そんな会話はもう何年もしていないから、余計に切なさが身に滲みるのだろうか。
(食事中ってなんでこう痛いことばっか思うんだろうなぁ)
自分の好みの味付けの食事。だから不味い筈はない。
しかし評価してくれる誰かがこの部屋にはいない。
成功しても、失敗しても食べるのは自分一人。
だからこそ、少しだけ食事が辛くなる。
毎回では無いことがほんの少しの救いだけれど。
ゆっくりと食事を終えると、皆本は空いた皿を重ねキッチンに運ぶ。
そのついでに少し軽くなった急須に再度湯を注ぐと、それをテーブルに置いた。
冷蔵庫の中には昨日貰った甘夏が皮を剥かれた状態で皆本の口に運ばれる時を待っている。
けれど、出番はもう少し先になりそうだ。
「…ふぅ」
焙じ茶をゆっくり嚥下すると、皆本は窓の外から周囲の景色を見渡す。
何年も見つめ続けた変わらぬ風景。
先ほど騒がしかったのがまるで嘘のように、周囲の景色は元通りに戻っている。
隣人が来たことすら皆本の儚い希望が見せた一時の夢のように。
しかし、実際彼の姿を目にしたのは間違いの無い事実だ。
不審げに細められた鋭い双眸は忘れようとしても忘れられるものじゃない。
穏やかで単調な、皆本の小さな世界に彼は一体どのように作用するのだろう。
ひょっとしてまるで作用しないかもしれない。
今この状態では何も分からない。分からないこそ、少しだけ高揚させる何かが彼にはある。
「僕から挨拶に行くと…やっぱまずいよな」
どれだけお節介なんだと自分を揶揄しながら、皆本はテレビのボタンをようやく押す。
途端、部屋に響くのは楽しそうな芸能人の声。
一瞬その音に驚き、慌てて音量を下げる。
今まで一人だったから、音量に気を付けたことなど無かったがこれからは注意しないといけない。
いや、音量以外にも生活音が隣人の不快にならないように気を配らなくては。
「あんま、遅い時間に風呂入るのはやめよう…」
ついつい夜更かしをしすぎる癖を直さなければと苦笑しながら、ボタンを変えていた皆本の耳に
呼び出しベルの音が響いたのはそれから数分後のことだった。
続く