頼むから、そんな心配そうな表情なんてすんな。
そんな瞳で、俺を見るな。
見つめられても、答えられない。
望むのはたった一つだけ。
ただ、そっとしといてくれないか。
ジレンマ
「賢木さん、そこにいたんですか」
ひっそり静まり返るカフェテラス。昼食時には人でごったがえすこのスペースも、
夕闇迫るこの時間帯になればさすがに閑散とした色を浮かべる。
立ち寄る人間が殆どいないことを良いことに、テーブルを占領して
明日提出のレポートを仕上げていた俺は、耳慣れた声にぱっと顔を上げた。
自主休講を決め込んで、今日は一日課題に悪戦苦闘していた俺とは違い、
しっかり講義を終えてきた皆本が目の前にいる。
使い込まれた専門書を脇に抱えて、「もしかしてサボり?」と眉を顰められては
俺も上手い嘘はつけず、「明日提出だからマジやばいんだって」と彼の前で肩を竦めてみせた。
「まー、そう怒るなって。今終わったのか?」
「ええ、今日は脱線が多かったんですよ。いつもより時間延びたんで…疲れた、かな」
隠しきれない疲労を漂わせ、彼が手近な椅子にふにゃ、とその身を投げ出す。
少しだけ崩れたその姿を目にするのは、俺にとって実は珍しいことではない。
周囲から常に「気真面目すぎるほど、真面目」と評される彼が人前で気を抜くことなど
あまり多くないのだけれど、その多くない瞬間に自分はいつも立ち会っている。
いや、俺の前だけではこういう気安い姿を惜しげもなく出している、という所か。
彼と知り合ってしばらく経つけれど、時間が進むにつれて見せてくれるようになった一面は
どれもとびきり新鮮で。
自分には気を許してくれているのだ、と新たな一面を発見するたびに実感する。
多分、他の誰も見たことのない姿を俺だけが知っている。自分ただ一人だけの特権。
今だって、俺の飲みかけたコーラを一口飲んで、「炭酸抜けてて美味しくないですね」
なんて。
ぶすっと子供のように頬を膨らませている様も、きっと。
(全ては俺だけのものだ)
即座に沸き上がるストレートな感情は、呆れるほどに強い歓喜。度を越した優越感。
背筋を走る覚えのある快感に、一瞬体を支配されて。
拘束力の強いその力をなんとか理性で振り払った。
うち消すことも出来ず、ただ一瞬逃げただけに過ぎないけれど。
ささくれ立った指先で、胸の奥を弄られているような居心地の悪さから必死に目を逸らして、
俺は「いつも通りの」の笑顔を整える。
それなのに。
「賢木さん?いきなり急に黙りこくって…考え事ですか?」
皆本の心配そうなその表情を見た途端、たった今背を向けたモノが
嬉々として自分を追い詰めようと牙を研ぐのが分かった。
どうか、頼むからそっとしておいて欲しい。
何事も起きないよう、ただ密やかに。
きっと気づかなければ、いつまでも穏やかな関係のまま笑っていられる筈だから。
我が身可愛さと罵られても、目の前の一歩を踏み出すわけにはいかない。
たった一歩の所為でようやく得た大事な関係を失うなんて。
衝動に従った結果、この掌に何も残らない将来なんて、想像すらしたくない。
だから、湧き出る答えをひたすらに否定する。
「それで後悔しないのか」と激しく糾弾する自分の本心も何もかも。
ほんの少しだけ、頷いてしまいそうな弱い心を蹴り飛ばして。
とっくに出ている答えに「正解」の丸印をつけず、自然と風化していくのを
俺はただひたすらに願っている。
「…賢木さん、本当にちょっと、顔暗いですよ?」
「何でもないって」
そう、自分が認めさえしなければ、「無かったことに出来る」想いだから。
風化なんて決してしないことを誰よりも理解しながら、俺は切に願う。
気の迷い、といつか笑い飛ばせるような想いになるように。
終わり