月夜に、花のひとしずく




星がまばらに散った濃紺の空に、盛りを過ぎた薄い花弁が照明に照らされてはらはらと舞う。

刹那的な情景をぼんやりと見つめながら、賢木は手にした酒を呷る様に飲んだ。

周囲の喧騒から隔絶されたようなそのワンシーンは、清冽な印象とともにうっすらと匂うかのような色香を

賢木に向かって振りまいて。

ふとそちらに気をとられていると、現実に引き戻されるような声が耳元に甘く届いた。

「ほら、賢木。全然進んでないじゃないか」

「…そーいうお前は」

「何?」

ほろ酔い気分で、ビールを口にしている皆本の周辺には空いて久しい缶がきちんと整列して並んでいる。

酔いはしているものの、こんな時でも無造作には散らかすことが出来ない性分の皆本に苦笑しつつ、

賢木は「何でもねぇよ」と会話を打ち切った。

「ふうん…ま、いいけど」

あっさり興味が失せたのか、酒を飲むことに集中する皆本に気取られぬように溜息をつきながら、

賢木は空いた缶をもてあそぶ。

(ピッチが速すぎる)

いくら無礼講の花見大会とはいえ、普段ならこんな乱暴な飲み方をするタイプではないのだ、彼は。

どちらかといえば、正体を無くすほど酔っぱらった職員の世話係を押し付けられることが多い為か、

職場の酒席においては乱れることなど無い筈なのに。

今日はといえば、率先して酒を注ぎ、注がれ、一番杯を重ねている皆本に、益々皆のテンションが上がるといった塩梅で。

この調子なら自分が彼の世話をすることになるな、と少しだけ含んだ笑いを洩らす。


いつも世話されっぱなしの状態なのだ、たまには世話を焼くのも悪くない。


普段よりは素直に指示に従ってくれそうだなと想像を巡らせながら、

赤い顔を隠すように賢木は次の缶に手を伸ばした。

酔った皆本という極上の肴を前についつい飲み過ぎないようにしなければ。

自分には皆本のギリギリを見極める義務がある。


彼の健康を預かる医師として、そして何よりも大事な存在を心配したい恋人として。


飲みたい気持ちを出来る限り優先させてやりたいから、直情的に諌めたりなんてしないが、

それでも体に毒になる酒量を突破するのなら、抵抗されても酒を取り上げなくてはいけない。

空になっていく缶の数を考慮に入れながら、賢木は横目で皆本を見遣る。

その気持ちが痛いほど分かるから、止めたくはないけれど。

そろそろ潮時にした方が良いかもしれない。


眠くなったのか、ゆっくり船を漕ぐ恋人の様子を確認すると、

賢木は視界の隅で泣き上戸と化していた桐壷と、その隣で的確な相槌を打っていた柏木に向かって声をかけた。

「スイマセン、もうコイツ限界みたいなんで」

「あ…分かりました。今日はお疲れ様でした。先に上がって下さいね」

皆本の危うげな様子を見て瞬時に状況を把握する柏木とは別に、桐壷は残念そうな様子だ。

「まだまだ!夜は長いんだヨ?!君達!」

「そうよ〜?イケメン二人が帰っちゃうなんて不二子のお酒不味くなっちゃうじゃない」

ぐずぐずと酔っぱらいの戯言を展開する桐壷に便乗するように、いつの間にか近づいてきた蕾見もまた

素直に帰してくれる気はないらしい。

「局長も管理官もご無理はおっしゃらないで下さい。この状況で留まらせるのはちょっと」

冷静な柏木が、上司の我儘を指摘しても、勢いは全く止まらない。

「うう、ワシの酒が…飲めないって…ことか…」

ぶわっと涙を滝のように溢れさせる桐壷とは対照的に、不二子はにんまりと笑いながら、賢木の腕をつついた。

「な、何なんですか…管理官」

「ふっふっふ。皆本クンを酔い潰して早々にお持ち帰りするつもりだったでしょ?」

「あぁ?!いや、それ誤解…!!」

二人きりで飲むならともかく、職場の飲み会でそんな大胆な行動に走ると思われているのだろうか。

全くそんな気は無かったというのに、不埒な想像をされている自分の信用の無さに賢木は苦笑するしかない。

「今日は、ンなこと考えてないですって。ヤダな、酒が過ぎてんじゃないすか」

「不二子には隠しても無駄よ?皆本クンの隣に陣取って、何度も様子うかがってたの知ってるもの」

「純粋に心配してただけですから。つかスピード早かったから、余計に」

「あー、確かに…。まぁ、今日は一番飲む資格あるから良いんじゃないかしら。ふふ、乱れる彼、可愛いわね」

顔全体を赤くして、目を開けていることすら億劫そうな皆本に顔を近づける蕾見に対して、

賢木は薄く笑みを張り付けたまま

「今日だけは特別ということで。ラッキーだと思って下さいよ、見られんの」

「んま。可愛くない台詞。不二子にそんな口聞いてイイと思ってる?」

くすくすと蟲惑的な笑みを浮かべる上司に対して、本音を忍ばせ言葉を向ける。

「…良かろうが良くなかろうが、心が狭いんですよ俺」

出来たら一秒だってこんな危うげに染まる皆本を人の目に曝したくないのだ。

普段の数倍無防備になっている恋人をそのままにしておけるほど、賢木は大人では無い。

その為なら上司に楯ついても良いとばかりに挑戦的に口角を上げると、彼女はやれやれと首を振った。

「随分重症なのね。まぁ知ってることだけど」

「隠してるつもり、ないんで」

「隠すつもりも無いくせに。…お酒飲み直さないと、不二子ちょっと胸やけしそう」

「普通逆じゃないですか?」

客観的につっこむと、蕾見は「十分現状に合ってるわ」と立ち上がり、くるりと踵を返した。

壊れたポットのように泣き続ける桐壷を強引に立ち上がらせると、柏木とともに引っ張っていく。

気を聞かせてくれた上司に頭を下げると、彼女は、

「送り狼にならないようにね」とウィンクしながら賢木に釘を刺して。

「…ならせてくれんなら、って感じだな」と小さく呟きながら、賢木は皆本の腕を自分の肩に回して立ち上がらせたのだった。




未だ狂乱の宴といった風体の花見会場から退散し、彼を送るべく歩を進める。

「ったく、飲み過ぎだっつの」

桜の木が群生している芝の敷き詰められた会場から一歩離れると、あの賑やかさがまるで嘘のように

夜気に満ちた公園が視界に広がる。

日中、幼児の遊び相手となっているだろう古ぼけた遊具は英気を養うようにひっそりと佇み、

時折静かな風を受け、きいきいと微かな音色を洩らしていて。


近道とばかりその公園を通過する二人の姿を、ただ月だけがじっと見ている。


「ん…ねむ…さか、き…」

耳元で微音混じりに強請られ、思わず反応しそうになる正直な感情をどうにか宥めながら、

賢木は、公園を通過することに神経を傾けていた。

ここを通過すれば、皆本のマンションまでは目と鼻の先で。

そうすれば、皆本の希望を叶えることが出来る。


(送り狼には…この状況じゃちょっとな)


なりたくても、なれそうにない。

仕方がないかと嘆息して、賢木は酔っぱらいの会話に付き合っていた。

「ああ、家着きゃ、思う存分寝られるからそれまで我慢しろ」

「ねむい」

「もう知ってるから、それは。もうすぐ着くって」

「ねむいん…だ」

「つか、さっきからそればっかだな…うぉっ?!重っ!!」

皆本の腕を乗せている肩がいきなり重くなった気がして、おそるおそる彼の方へ視線を向けると。

「…そりゃ、ちょっとねぇだろ」

立ったまま、賢木の体に体重を預け、完全に睡眠モードに入った恋人の姿。

くうくうと寝息を立てる皆本にがっくり項垂れると、賢木はぷっと苦笑を洩らした。

本当に今日の皆本は子供みたいだ。

「…仕方ねぇなぁ」

こんな寝顔を見せられては怒るなんて到底出来そうに無いのだ。

不二子の言った通り、「重症」も良いところだろう。

無防備すぎる恋人を担ぎあげると、きょろきょろと視線を動かしながら、探すのはベンチ。

腰を落ちつけられそうな手ごろなものは無いかと、賢木は隅々まで目を凝らしたのだった。




目当ての場所を発見すると、そこに皆本を寝かせ。

枕代わりに自分のジャケットを丸めて、それに彼の頭を乗せる。

体が冷えぬよう持ってきていたスプリングコートを体全体に掛けてやると、賢木は満足そうに微笑んだ。

長くは寝かせてやれそうにないが、なんとかしばらくは大丈夫だろう。

「マジで寝るとは…」

つまり賢木が感じる以上にそれだけオーバーペースだったということだ。

幸いにして、気持ちが悪くなったりしている様子がないことが当座の救いで。

「分かってんのか、コイツ。…こんな心配させてさ」

軽く髪を撫でると、むずがるように首を振る皆本の仕草に目を奪われる。

普段、年上の自分よりも大人で、何かと言えば先回りして気遣ってくれる彼の全く違う一面を見られるなんて、

何物にも得難い至福で。

「まぁ、今日は特別なんだろーな、多分」

次があるかどうか分からないその貴重なビジョンをしっかり目に焼きつけ、賢木は皆本の額に唇を寄せた。


彼が正体を無くすほど飲みたかった理由は、良く分かっている。

多分、皆本の近くにいる大人なら誰も気づいているそんな明確な理由。

だからこそ、彼が酒に乱れるのを誰も止めなかったに違いない。

賢木もそんな大人の一人だ。


「今度は二人で祝い酒、ってことで」

(その場ならいくらだって乱れても良いから)

ゆっくりと己の唇を皆本の額に押しつけると、皆本の温もりが触れた唇から賢木に伝播した。

「いっぱい話聞いてやるからさ」

「んぅ…っ…」

くぐもった声を洩らしながら起きる気配のない恋人の知らぬ間に、

約束のキスを与えながら賢木は密やかに笑む。

まるで欠席裁判みたいな約束を盾に、次の約束を取り付けようと心ひそかに企む賢木。

そして、健やかな眠りに落ちたまま戻ってこない皆本。


そんな二人の様子に微苦笑を洩らすかのように、遊具がまた小さく揺れたのだった。



終わり