自分で蓋をした、遠い日の記憶。

時折、隙間から洩れる断片の甘さに躊躇し、それでも触れずにはいられない素直な気持ち。

一瞬でも思い出してしまえば辛いだけなのに、それでも垣間見ずにはいられない。

あの日の自分と、そして。




輪舞曲(1)




「こら、あんまりひっつくなって」

誰かを注意する自分の声。しかし、迫力がないのが一向に離れる気配のない人物に

僕はくるりとその人物の方へと向き直った。

自分の腰丈程の高さの彼に視線を合わせると、彼は「いーじゃん」とぶーぶー文句を言う。

「だってさ、光一イイ匂いすんだもん」

「それは食事の匂いじゃないのか?」

「あーそれはあるかも。だって、いつも光一のご飯美味いしさ」

「ったく、お世辞はいいから、これ卓袱台に運んで?」

「はいはい」

いそいそと煮物をよそった大鉢を運ぶ彼に、僕は苦笑しつつ自分もお櫃を抱える。

「あ、いいよ。俺持つから。腰は大事だぜ?」

妙に意味深な台詞に僕は、

「その台詞…誰の影響だ?」

「え?カフェーの女給さん達が言ってた」

「またあそこに行ったのか…勿論小父さんも居たんだよな?」

「いや、もう俺あそこには父兄同伴なしで入れるし。なんたって気に入られてっから」

「修二!!」

思わず叱りつけると、彼はぶすっと面白くなさそうな表情を浮かべる。

「いーじゃん、光一のケチ!!女給さんの恋愛体験談とか参考にしてるだけだっつーの」

「…一体どこで知識を披露するつもりだ」

ずきずきと痛むこめかみを指でさすりながら、恐る恐る問うと。

「勿論光一の前に決まってンじゃん!」

自信満々な彼の言葉に、僕は大きく溜息をついた。

「あのね、修二。いつも言うようだけど…」

「年齢気にしてるのか?そりゃまぁ、俺は10歳だけど、気持ちは本物だからさ」

「そーじゃなくて…」

「なら、なんだよ。光一だって、俺のこと好きだろ?」

「恋愛感情としては違うっていつも言ってると思うんだけど…」

「“好き”なら発展する可能性あるだろ?問題なし!!」

清々しいほど溌剌と言い切る彼に、僕は己の教育が間違っていたのかと嘆かずにはいられない。

放任主義の修二の父親から信頼されているだけに、妙な方向に育っている彼を見るにつけ、

これで良いのだろうかと思わずにはいられないのだ。

「まぁ、今日のところはその辺で」

この不毛な会話から抜け出そうと会話を打ち切ろうとすると。

「光一には俺の真剣さがイマイチ伝わってねぇ気がする」

「流石にちょっと信じられない…かな」

子供の本気を甘く見ているわけではないものの、修二が僕のことを恋愛感情で好きだと言うのが

どうにも飲み込めていないのは事実。

自分が彼の年には、恋愛という言葉すら遠い世界の話だったから余計に、かも知れない。

「ちぇ、じゃあいいよ。信じるまで言い続けるし」

なおも諦めない彼の熱意に正直脱帽しつつも、表情には出さないように注意していると。


「光一」

僕から受け取ったお櫃を卓袱台に置くと彼は、僕との間合いを一気に詰めた。

「なぁ、今すぐ信じてくれなくても良いから。大人になったらさ」

「ん?」

「俺と一緒になってよ」

「……それって」

「つまりそういうこと。やっと言えたぜ!!」


一人興奮する修二の言葉が僕の脳内をぐるぐる駆け巡る。

そういうこと、というのはまさか求婚のつもりだろうか。

いや、まさか。

ただ言ってみたかっただけで、深い意味なんて無いに決まっている。

きっと、そうだ。

「光一?」

一瞬で、硬直状態から脱すると僕は「ああ、それは…考えておくよ」と

曖昧な言葉で誤魔化すしか出来ないのだった。

「本当か?!やったー!!約束だからな!ずっと一緒に、だからな」

「一緒には、いたいね」


それは淡い希望。

いつか成長したら、修二も僕から離れどこか別の場所で暮らすに違いない。

そうしたら、僕はまた一人になってしまう。それだけは避けたかった。

どんな意図で、彼が言ったにせよ「一緒に居たい」気持ちは本物だろうから。

僕は、卑怯にもその言葉に縋る。

修二が喜ぶ顔を見つつ、己の矮小さに自己嫌悪の嵐に襲われながら。

僕は、ぎこちなく笑んでみせたのだった。






一瞬戻った、あの日のやりとり。

「夢か…」

夜の世界に包まれ、しいんと静まり返った部屋の中僕はゆっくりと身を起こす。

頬を撫でると、湿った感触にまたかと僕は指でそれを拭った。

繰り返し繰り返し、活動写真のように鮮明に蘇るあの日の記憶。

もうあんな優しい光景は蘇りはしないのに、心の底で望んでいる所為か何度も夢に現れて。

その度に、僕は手を伸ばすのだ。

「修二…」

もう会えない人、居られない場所。

一番幸せだったあの日の自分。

どうして、もっと大事に過ごさなかったのか、そのことが悔やまれてならない。

会いたいけれど、どこに居るかも分からない彼。

会いたい、と願うなんて自分勝手も良い所だろう。

だから、夢を見るたびに何度も記憶を閉じようとするのに、あさましく夢で反芻している自分。

正直すぎる自分の望み。

軽く溜息を零すと、僕はまた瞳を閉じる。

今度こそ、幸せな夢など見ないように祈りを込めて。




続く